友井と中南之町

 「中南之町」とは、御劔神社の祭礼を運営する友井保存会の中での地域名称です。ですので地図にはありません。中の筋と南の筋が合わさってできた名前です。現在の住所でいうと、友井4丁目5丁目を中心に、美園町や久宝園地域が中南之町となります。町並み紹介


 現在の友井は、大阪府東大阪市の南部に位置します。交通の便としては、中央環状や旧中環が通り、駅は近畿日本鉄道弥刀(みと)駅があります。弥刀東小学校や弥刀中学校の校区となります。駅から商店街を抜け少し東に入ると旧村の家々が立ち並びます。線路を渡り西へ抜けると、大蓮や柏田があります。北には長瀬、南には久宝寺となります。地名の「友井」という名前の由来ですが、その名の井戸が由来のようです。東大阪市内にある「出雲井」や「桜井」も井戸の名前からきたようです。江戸時代から明治の頃まで、この地の人々の生活を潤していた水源が友井であったようです。


■資料1
『大阪府全志』に「友井は清泉友井のあるより起れるならん、井は其水極めて清徹にして、河内志にも載せられしが、今、其跡詳ならず」とある。
東大阪市に出雲井(注1)、桜井(中世に桜井郷の地名、現六万寺町、注2)、柏原市に山ノ井(注3)の地名があり、それぞれ伝承となっている”井”の所在地が知られている。
「友井」という地名も、友井と呼ばれる井があったから、そうよばれるになったに違いない。しかし、その井の所在地は不明である。江戸時代から明治のころまで利用されていた簡易上水道は友井の村を潤していた。その元井戸が”友井”であったかもしれない。

注1 枚岡神社の社殿の南側に出雲井と呼ばれる清泉がある。そこから導水管が引かれて同神社の手洗い水となっている。
注2 六万寺の旧村内に桜井と呼ばれてきた井戸がある。
注3 瑠璃光寺の境内・薬師谷に山ノ井の清泉がある。



「この地の変遷」

 縄文時代、この地はまだ海でありました。付近から多く鯨の骨が出土されています。河内平野が現れたのは2200年前頃だといわれています。

 古墳時代には物部氏が住み着いていたとされています。条里制がしかれていました。この頃から友井は水源が豊かな土地としてよく知られていたようです。現在でも、多く田畑が見られるのは、この当時からの名残のようです。

 戦国時代には、多くの合戦の場ともなりました。江戸時代になり、この地は非常に複雑な支配形態がとられていました。一つの村が一人の支配者によって統治されるのではなく、一村に二者以上の支配者が入組になって支配していました(郷土支配一覧表)。他の村以上に、かなり厳しい負担が友井に課せられていました。幕末の頃には、人口が減少する状況にまでなっていました。裕福な村ではなかったんですね(文政二年八月若江郡友井村明細)。


■資料2
江戸時代より明治二年に弥刀村に合併されるまでの村社会を辿ってみると、元和六年(1620年)徳川幕府二代将軍徳川秀忠の時代より代官の支配するところとなり、貞享元年(1684年)大阪城代土屋相模守正直の役知となり同四年(1688年)松平因幡守信興の役知に変わったが、元禄四年(1691年)松平氏がすすんで役知を返上したのでその支配は徳川代官に帰した。以後六十有余年徳川代官の支配にあったが、宝暦二年(1752年)には大阪城代松平右京太夫輝高の役知に属し同八年(1758年)三度徳川代官の支配するところとなった。後年、村高七百十六石七斗一升四号の内、三百三十一石七斗五升四勺九才は土岐丹後守頼稔の領地に属し残り三百八十四石九斗六升三合五勺一才は徳川代官の支配に分割された。徳川代官の支配下にあった支配地は明和元年(1764年)大阪城代松平和泉守乗佑の役知に移り同六年(1769年)大阪城代久世出雲守広明の役知に変わった。その後天明元年(1781年)四度徳川代官の支配するところとなった。その後は同代官が継承して代官小堀数馬に至り明治元年(1868年)新たに御料となって小堀数馬に預けられたが同年六月二十二日、大阪府司農局の支配に移り同年七月南司農局に属していたが、同二月(1869年)一月二十日河内県の管轄内におかれ同年八月二日に更に堺県の管轄に変わった。
 また、土岐代の領地は同代が世襲して土岐山城守頼知に至り明治二年六月沼田藩(現在の群馬県)の支配するところとなったが同四年(1871年)七月十四日廃藩置県に伴い沼田藩から沼田県の管轄になり同年十一月十五日当分の間群馬県の管轄にあった同月二十二日堺県にその支配を移された。ここにおいて、七十有余年の長い年月、同じ村でありながら分割されてきた支配が、全村同一の管治に帰ったのである。この事は江戸時代の行政がいかに人民不在の行政をしてきたかということが伺われる。ここにおいて近江堂、小若江、友井は同一管轄となり、堺県区画の制定に及んで明治五年(1872年)二月河内国第十二区に属したが、明治七年一月二十二日第二大区二小区に改められて、同四月十四日一番組に組入れられ同九年十二月七日番組が廃されて単に第二大区二小区となり、同十三年四月十四日八尾郡役所部内となり、同月二十三日第一聯合に属し、同十四年二月七日堺県が廃されて大阪府の管轄となり、翌三月五日聯合を離れて独立し、同十七年七日第二十九戸長役場の管理区域に入り、明治二十二年四月一日の町村制施行により近江堂、小若江、友井は弥刀村となる。
 ※長瀬農業共同組合創業八十周年記念誌「郷土をたずねて」荻田昭次氏著より


 明治になり、長く続いた幕藩体制が終わりを告げ、新政府の下で行政が進められるようになりました。明治22年、友井・近江堂・小若江が合併して弥刀村が誕生しました。当時の人口は、友井704人、近江堂662人、小若江489人の合計1855人でした。産業の中心は、河内木綿の綿作りからの流れで撚糸(よりいと)工業が中心でした。現在でも、家内で営んでおられるご家庭があります。

 その後、人口が急激に増加した背景には、大阪電気軌道(現在の近鉄)が布施八尾間で開通したことが原因とされています。弥刀小学校、布施第三中学校(現金岡中学校)の校区だったこの地も、人口の増加から、新たに弥刀東小学校、弥刀中学校が開校しました。

 現在のこの地は、旧家や田畑といった面影ものこしつつ、新しく建つ住宅や商店と調和しています。非常に穏やかな印象をうける町並みも、様々な変遷を経て成り立っているものと考えます。

ざっとですが、ご紹介させていただきました。


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