御劔神社 (みつるぎじんじゃ)


■御祭神 

▼素戔嗚尊
(すさのおのみこと) 

 伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)二神の子。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟で、出雲地方などの八俣大蛇(やまたのおろち)退治伝説で知られる。

▼菅原道真公(すがわらのみちざね)

 平安前期の政治家、学者、文学者。藤原時平(ふじわらのときひら)のため大宰權師(だざいごんし)として九州大宰府におとされ大宰府で他界。後に太政大臣の位をおくられ「天神さま」として広く学問の神として信仰されている。


弥刀駅(近畿日本鉄道大阪線)の東方二百メートル、友井三丁目の地に御劔神社がある。友井村の歴史とともに存在していたであろう、由緒ある古い神社である。
境内を入って右側に「寛政九丁己九月・南若中」の石灯篭 、左側に「文化十四丁丑年九月吉日、願主、浅田善右衛門、浅田勘兵衛、中村治左衛門、本沢与左衛門、石田四良右衛門」の石燈籠がある。また社殿中庭には元禄十五年(1702)の石燈籠と宝暦年間(1751-64)の「牛頭天皇」の碑が残されている(天王が正しいが碑文には天皇とある)。
 当神社由緒記によれば、祭神は、素戔嗚尊と菅原道真であり、草創は九百五十年前とある。初めは、友井四丁目の法敬寺の東北方にあったが、江戸時代中ごろの享保元年(1716)九月二十日、現在地に移され、菅原道真を合祀したということである(注1)。
本殿に菅原道真御神像があり、その台座に「享保元年丙申九月廿日、大阪南久宝寺五丁目南がわ、大仏師高橋左京」の銘がある。それは享保元年に菅原道真を合祀したことを裏付けている。また本殿には、正面扉に素戔嗚尊の象徴である松、側壁面に菅原道真の象徴である梅が描かれており、主神が素戔嗚尊であることを示している(注1)。
 さらに、友井の上田与史久氏所蔵、明治二年の村明細帳には、宮壱所氏神、牛頭天王 堺内御除地、横拾間、長拾五間社 三尺、五尺、柿葺 絵馬掛、貳間、三間、瓦葺 鳥居、壱ヶ所とあり、明治二年には、牛頭天皇と称していたことがわかる。
牛頭天皇というのは素戔嗚尊を祭った神社の神号である。
 明治元年三月、明治政府の神仏分離の布達があり、牛頭天王、熊野権現、白山権現などの神号は、それぞれ仏教語からきているというので、その称号を廃して、別の神社に改称されることになった。したがって、本社はそのとき、御劔神社に改称されたと考えられる。
 明治四十二年、内務省令により、経済的に維持困難な神社は統合されることになり、御劔神社も同年一月十八日、若江の鏡神社に他村の神社とともに合祀された。しかし、戦後の昭和二十一年、宗教法人令が制定されたのを機に、再び、もとの地に遷座した。
 その後、昭和四十一年、享保元年の遷座からちょうど二百五十年に当たるところから、大規模な社殿の修築、境内の整備が行われた。そのときの役員、氏子総代など多くの方々の労苦は、同社沿革史に詳しい。明治初期には瓦葺の絵馬掛けもあったから、若干の絵馬もあったであろうが、残っていない。若江鏡神社へ合祀された数十年の空白の時期に資料は散逸し、境内は荒廃したと思う。昭和四十一年に修築、整備されたことは、非常に喜ばしいことである。
 御劔神社は風雪幾百年、友井村の古い歴史とともに幾たびかの災害、変遷に耐えて、今日に至ったのである。

長瀬農業共同組合創業八十周年記念誌「郷土をたずねて」荻田昭次氏著より


下部のリンクから御覧ください

■御劔神社各所案内(画像)
■御劔神社沿革史
■友井と中南之町
■中南之町組織図
■中南之町曳き音頭




トップページへ戻る

inserted by FC2 system